Chapter22

2010年1月もう一つのアフリカ_vol.1

2010年1月もう一つのアフリカ_vol.1

AFRICAN JAG PROJECT来年6月にワールド・カップが開催される南アフリカ。日本代表も早々に出場を決め、いまこのアフリカ最南端の国に何かと注目が集まっています。日本のテレビなどでは“世界で一番治安の悪い国”という悪い印象を与えるニュースが先行していますが、実際に行ってみると治安の悪いところとそうではない所が明確で、ワールド・カップに向けて国を挙げて治安の安定を強化している。何よりも南アフリカの人たちが、この一大イベントを成功させようという思いが強く、多くの人たちがフレンドリーに接してくれて、これまで 7 回ほど訪れているけれど危うい事態に遭遇したことは一度もありません。
勿論、金銀ジャラジャラと身につけて暗い夜道を歩けば、襲われるかもしれないけど、それは南アフリカに限ったことではありません。くれぐれも日本の常識が世界の常識だと思わず、節度を持って、ワールド・カップを機に大きく変わりつつある南アフリカに遊びに行ってみてください。さて、この南アフリカの話をするうえで避けてとおることは出来ない“アパルトヘイト”とアパルトヘイト撤廃後の南アフリカについて、ケープタウンのググレトというスラム/ゲットーに住む私と同年代のラスタの友人にインタビューしたので、それを 2 回の連載としておおくりしたいと思います。第 1 回の今回は、“アパルトヘイト”の時に実際に友人が経験したことです。
ちなみにアパルトヘイトとは、人種隔離政策と言って 1948 年に法制化されてから 1991 年に撤廃宣言される( 94 年完全撤廃)まで白人政権が肌の色で 4 つの階級をつけ、人種差別を平然と行っていた政策で、特に本来の居住者である圧倒的多数の黒人に対して居住地を限定したり、 乗り物、レストラン、学校、公衆トイレまで公共施設はすべて白人用と白人以外に区別され、もしも黒人が白人専用エリアに立ち入った場合は、すぐに逮捕されたり、時には銃殺されたりした、白人至上主義に基づいた政策をいいます。その時の実態を映画化した『遠い夜明け』という映画は、必見です !!
●名前と年齢&職業、民族を教えてください。B・Z・ジョージ。49 歳。現在は無職。時々、ローカルのスタンドでピーナッツを売っている。民族はコーサだ。
●あなたにとってアパルトヘイトとは?
私にとってアパルトヘイトは、史上最悪の邪悪なシステムだ。辛い時代だった。例えば、自由に買い物もできなかった。白人専用の店があり、店内が「白人」と「非白人」にわけられている店もあった。また教育もひどかった。バントゥー教育といって、子供たちに意味不明なことを教え込み彼らの人生を台無しにするんだ。
●アパルトイトの時代は何をしていましたか?
アパルトヘイトの頃はまだ学生だった。 1976 年6月16日に暴動が始まって学校を中退しなければならなかった。 1978 年には父親が亡くなり、母親は無職、兄は酒に溺れていたため、私が働いて家族を支えるしかなかった。
AFRICAN JAG PROJECT●アパルトヘイトで忘れられない事件や経験はありますか?
多すぎる・・・。でも未だ忘れられない最悪の経験は、人権活動家だった父親が亡くなる前の 76 年か 77 年に、我々コーサ民族の姓を変える必要があったことだ。そうしないと白人警察がいつドアを蹴り破って活動家の家族である我々を逮捕するかもわからなかった。我々は PAC (パンアフリカニスト会議)派だったからね。だから我々は姓をボラニからジョージに変えたんだ。父親は、自分が死んだ後に子孫が迫害を受けるのを避けたかった。私は今でもジョージと名乗っているが、本当の名前はボラニだ。それと『ググレト 7 』・・・あの事件は、決して忘れることはできない。後でゆっくり話すよ。
●アパルトヘイトが廃止された時に思ったことは?
まず教育が変わって自由になると思った。それまでの南アフリカの教育は、我々黒人を白人のための労働者に育て上げるために、視野を狭くして押さえつけるものだったからね。それと職も増えると思った。 Publitization という新しいシステムを導入したが、我々にとってそれは良いものではなかった。そのシステムは我々には合わなかったんだ。職に就くのは、アパルトヘイト完全撤廃から 15 年経った今だって難しいよ。
●1994 年にネルソン・マンデラ氏が釈放されて黒人政権が誕生した時、希望があったのではないでしょうか?
勿論 !! 希望にあふれていたよ。マンデラが釈放された初日のパレードをみんなで見にいったよ。みんな希望に満ちあふれていた。やっと自由になれるってね。
●アパルトヘイトが廃止されて 15 年経ちますが、すべては期待したように変わりましたか?
答えはノーだ。すべては期待したようには変わらなかった。いくつかは改善したが、問題はまだ残っている。まだまだ改善するべきことは多い。特に教育に関してはね。
●それではアパルトヘイトの時 (1987 年)に、ここググレトで起こった『ググレト 7 』と呼ばれる事件について教えてください。
『ググレト 7 』は私のブラザーたちだった。ラスタのムーヴメントがここケープタウン、特にググレトで始まり、他の街にも広まっていっていた頃、我々は一緒に踊ったりラスタ同士つるんだりしていたんだ。ただ彼らには、我々とは違う点がひとつあった。みんなラスタだったが、アパルトヘイトとの戦い方が違っていた。彼らは反体制活動家として暴力に訴えたんだ。一方、我々は精神で戦っていた。我々は、「バビロンに抵抗するんだ、神は我々を見守っている」と信じていた。だが彼らは武器を手に取り、白人警察とそのシステムに暴力で戦うことにしたんだ。我々にそれはできなかった・・・。ある夜、遅くにブラザーたちは兵士を募るためにギグをやっていたダンスホールにやって来たんだ。でも我々ラスタは、「ダメだ、精神で戦うんだ。このシステムはいずれ倒れる」と武器を取ることを拒否した。平和を求めていたから。・・彼らに起こった事は悲劇そのものだよ。
●『ググレト 7 』の事件が起きたとき、どう思いましたか?
アパルトヘイトの恐ろしさを実感した瞬間だった。当初は 7 人ではなく、 8 人もしくはそれ以上の兵士で作戦が計画されていたんだ。でも作戦決行の時間に集合しなかった兵士が数名いた。彼らが警察に密告したのかもしれない。なぜなら、隠れ場所に近づいたら、警察が大勢待ち伏せしていたのだから。茂みや木々に隠れて警察が待っていたんだよ。完全に待ち伏せだ。
それで『ググレト 7 』が銃を捨て、手を上げて抵抗を止めると、警官が近づいて来た。警官は無抵抗のジャブ(ググレト 7 のひとり)を上から射殺したんだ。恐ろしいことだ。決して忘れられない。
●何名が亡くなったんですか?
7人全員だ。テレビでも伝えられたけど、みんな手を上げて無抵抗だった。銃も地面に置いていたにも関わらず、警察は彼らを動かなくなるまで撃ち続けた。
●その白人警官たちは逮捕されましたか?
まさか! 逮捕なんてされなかったさ。
●なぜ逮捕されなかったんですか?
わからない。真実和解委員の議長のツツ司教が動き、現場にいた人が事件の真相を伝え、亡きブラザーたちの両親が涙で訴えてもどうにもならなかった。
●黒人警官はいなかったのですか?
いたよ。もちろん黒人と白人の警官両方がいた。おそらく彼らは白人の上層部に待ち伏せするように命令されて撃ち合いになったんだろう。
● 今『ググレト 7 』の事件が風化しつつあると聞いたのですが・・。
そうだね。メインロードに建てられた彼らの銅像だって、囲いもなく雨ざらしだ。この辺り(ググレト)の人たちはみんな貧しく腹をすかしている。だから彼らは深夜に銅像から銅を削ってそれを金にしている始末だ。貧しすぎて誰の銅像かなんて気にしてられないんだ。・・・・悲しすぎるよ。
● まだ人種差別は存在すると思いますか?
存在するよ。人種差別はまだ確実に存在する。そしてそれは一方的なものだとウソをつくつもりもない。差別は双方に存在する。白人も黒人も互いを差別している。ここケープタウンでは、「カラード(混血民)」と呼ばれるアパルトヘイトの犠牲者がいるんだ。白人が一番偉くて、カラードが二番目、黒人は一番下に見られる。全員ではないけど、カラードの中には黒人を差別する人がいるのも事実で、カラードと黒人の間にはまだ溝がある。決して良い関係とは言えない。でも私にはカラードの娘がいる。これは我々ラスタが差別をしないという証明だ。人間はみんな同じだ。我々はひとつだ。肌を切れば赤い血が流れる。みんな同じ人間なんだ。・・・続く。
Afican JAG / Producer 浅野典子

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