local report
小さなことから・・・
自分たちの出来ることから始めていこう
12月1日のインターナショナル・エイズ・デーを直前に控え、再度アフリカ、マラウイ共和国の地に降り立った。今年本格的に始動したAfrican JAG Projectのエイズ患者への緊急支援とエイズ孤児の自立支援を行う為、そして2度目の現場視察をするのが目的だった。
マラウイ共和国のエイズの状況は、前回の視察でレポートしたようにかなり酷い状況にある。
今回もまた、大勢のエイズの患者さんに会った。それと孤児院で子供たちの置かれている現状を聞いた。母子感染の子供にも会った。そして前回、取材した人達にも再会した。その様子を数回に分けてレポートしていきたい。
第1回 緊急支援
今回は、CDの売り上げが制作費のリクープに至っていないため、日本国内でこのProjectに賛同してくれた人達からの寄付で下記の支援が行われた。※寄付の詳細及び収支は別途記載致します。しばらくお待ち下さい。
マラウイ湖の湖畔にチェンベという人口約1万人の村がある。この村の50%がエイズだと言われている村だ。ここには、アイルランドのNGOが運営するプライベート・ホスピタルがある。
しかし、治療費が日本円にして約50円(この国では平均、1日=US$1以下で暮らしている)することもあって貧しい人々は、病院に行かれない。国営の病院までは約90キロ、往復の交通費が約800円。血液検査を受ける施設までは約20キロ、約300円。到底貧しい人たちが支払える金額ではない。それを4月に行った時に知った。そこで今回、原宿のストリートブランドRevirth、映像集団03、Es・遊・Es、その他 個人寄付の中から以下の緊急支援を行った。
《支援1》2000人が無料で診察を受けられるクーポンを作った。
① 1000枚を村の訪問看護をしているMrs.Roseと日本の協力隊員でこの村に住み、子供達の面倒を見ている古川さん、そして孤児のバンドを作り自立支援をしているピーターに手渡した。村の中をよく知る彼らが診察が必要だと思った人に配ってもらう。その際クーポンの裏に自分のサインを入れ、誰が配ったクーポンかを判るようにした。
② 残りの1000枚をプライベートクリニックに手渡した。ドクターが再診が必要とみなした患者さんに次回分のクーポンを渡す。この際、裏面にドクターのサインを入れる。
《支援2》無料トランスポート・クーポン
① 血液検査を受ける為のトランスポート/無料クーポンを200枚をドクターに手渡した。
② 重症の患者さんが国立病院へ行くためのトランスポート/無料クーポンを200枚、ドクターに手渡した。クーポンは、クリニックで診察を受け、血液検査やエイズ治療が必要とみなされた患者さんにドクターから配られる。裏に行き先とサインが無いと無効になる。そのクーポンを持って協力隊の古川さんのところへ行くと無料のトランスポートを受けられる仕組み。
《支援3》その他
① 取材をさせてもらった重症の患者さん達には、主食のメイズの粉を2キロとオレンジジュース、砂糖、ビスケット等とトランスポート費を直接手渡した。
② 孤児院にも子供たちの食料費を少し寄付した。
③ リロングウェイの孤児院では140人の子供達にビスケットを手渡した。
④ チェンベのクリニックにガーゼや消毒液などを寄付。また、無料診断のために手渡したお金の余りを病院で必要なものを購入してもらえるよう御願いした。とりあえず、今回はこんなことしか出来なかったけれど、現地と密に連絡を取り合って 今回の支援方法に問題が無いかもし問題があった場合、どのように改善していけばよいのかなど色々と模索しながら今後も支援を継続させていきたい。
今考えている支援 緊急支援
① 今回行ったチェンベにおけるクーポン支援の継続(この支援が上手くいけば、他のエリアでも同様の支援を行っていきます)
② 孤児院の子供達の洋服、靴、及び食糧支援(現在、洋服の送り方などを検討中です。決定し次第、HPにてお知らせします。)
中長期及び自立支援
① 竹を使った自立支援(竹炭、竹酢、竹細工、食料としての竹の子等)
② 現地にNGOを設立し、動けるエイズ患者さんを雇用し、トランスポートサービスを行う。
第2回 増え続ける孤児
近年に紛争があった訳でもないのにこれだけの孤児がいる国は初めてだった。どこのエリアに行っても孤児で溢れている。ブランタイアの孤児院では、2つの15畳ぐらいの部屋に120人の子供たちが預けられていた。その半数がエイズ孤児。母子感染で自らもエイズに冒されている子供たちもいる。この孤児院の園長先生は、ここの他にも2つの孤児院を持っていて合計で約300人の子供たちの面倒を見ている。1歳~6歳までの子供たち。ここの経営は、大半が寄付で政府からの援助はごく僅かだという。リロングウェイの孤児院も約100人の孤児がいた。ここは、政府からの援助は全く無く、一切をボランティアと近所の人たちが賄っていると言っていた。これからも、もっと孤児は増え続けるだろう。私が会ったエイズの患者さんのほとんどが既に伴侶を亡くしていて、もしその患者さん本人が亡くなった場合、子供たちだけが残される。どこの孤児院も定員オーバーで先が見えない。平均一日$1以下で暮らしているこの国の人たちにとって孤児を養うことは、簡単なことではない。孤児院の園長先生は、悲痛な面持ちで子供たちの将来を心配していた。このままの状態が続いたらストリート・チュルドレンが路上を埋め尽くし、ギャングになる子供も増えるだろう。今、マラウイの孤児院は子供達の食糧、洋服、そして居場所の確保さえ難しい。
エイズ孤児①Male
上記3番目の写真を覚えているだろうか・・・。チェンベの村で会った、母子感染でエイズになってしまった男の子、マレ(7歳)。5歳のときに両親をエイズで亡くし20歳のお姉さんと一緒に暮らしていた少年だ。4月に会った時、マレは首の左側を怪我して そこからバイ菌が入り、化膿して熱を持って左のほっぺたが大きく腫れていた。傷口にハエがたかるので常に耳にT-シャツをかけて傷口を隠していた・・・全く笑顔が無かった少年。私は、あの時、救急箱を持っていれば・・・と心底悔やんだ。だから今回は、沢山の消毒液とガーゼ、化膿止めなどを持って彼に会いに行った。マレは、私が会いに行くと村の人達に呼ばれて恥ずかしそうにして私のもとに来た。前回会ったときに「欲しいものは?」と聞いたら「ファンタ・・。」と言ったのを覚えていてファンタを持っていこうと探したのだが、あいにくファンタが無く、コーラと地元のグレープジュースを持っていった。それらを手渡すとマレは一気に飲み干した。マレの首の傷は、ふさがっていた。
しかし、以前よりも腫れは酷く左側だけでなく右側も大きく腫れ上がっていた。話を聞くと私たちが4月にマレの元を訪れた後、傷口が悪化して首の両側のリンパがパンパンに腫れ上がったのだそうだ。一時は動けないほど悪かったらしい。20歳の姉は、結婚もしておらず、マレの病院代やトランスポートのお金を工面するのは困難だったようだ。そこで、チェンベのプライベート・クリニックで働きながら村の訪問看護をしているMrs.Roseとクリニックのドクターがお金を出して、国立の病院で治療を受けさせてくれたのだそうだ。まだ完治したわけではないが、傷口がふさがったので今は薬を飲むだけに回復したと言う。
エイズの患者は免疫力が落ちている為に怪我などをすると治り難い。しかも、栄養状態も悪く様々な病気を併発する恐れがある。その上、村には電気もないし、水も湖からのものを使っている。衛生状態も決して良いとは言えない。様々な状況が重なってマレの怪我はくなっていったのだと思う。でも、良かった・・・救急箱は必要なくなった。5歳のときに両親を亡くし、しかも母子感染で生まれながらにしてエイズ患者となってしまったマレ。5歳のときに両親を亡くしたということはきっと記憶の中に両親のことがあるはずだ。寂しいだろうし、苦しかっただろうし・・・。あの怪我が原因で死んでしまっていたら・・・と考えると本当に恐ろしい。エイズは、決してかかった本人だけの問題ではない。特に母子感染で生まれてきた子供には悲劇が待ち構えている。そんなマレに私は、サッカーボールを手渡した。彼の顔が満面の笑みに変わった。いつも下を向いていたマレが真っ直ぐ前を向いた瞬間。本当は、1人の子供だけに何かをすることが良いことでないのは、判っている。でも、ずっと辛かったんだもん・・・頑張ったんだもん・・・。
いつも下を向いていたマレが村の子供達の人気者になったって良いと思う。「みんなで使ってね!!」ってマレに言った。そして もし何かあったときのことを考えて協力隊のFさんに御願いした。「もし、このボールのことでマレがいじめられたりしたらFさんのところで管理して下さい。」って。マレの命があとどのぐらい残されているのか、私には判らない。
でも一日でも長く、少しでも沢山の笑顔がマレの人生に訪れることを祈っている。
第3回 悲しい現実
上記写真の女性を覚えているだろうか?
今年4月に私が初めて出会ったステージⅣの患者さんで今までにも何度か様々な場所で彼女の現状を訴えてきた。そのときのレポートを下記に省略して記す。彼女はステージⅣ。末期のエイズ患者だ。お腹が膨れているのは妊娠しているのではない。腹水が溜まっているのだった。ガリガリに痩せ細った身体。あばら骨が浮き出て腕も折れてしまいそうなほど細い。
しかし、左足は右足の倍ぐらいに浮腫み、1人で立つことも出来ない。2年前に御主人をエイズで亡くし、子供が3人いた。お金も無く、勿論食べ物も無い。側に置かれていたのは、茶色の水。家の中には、本当に何も無かった。そして彼女もまた、土の床にゴザ一枚を敷いただけの場所に下着も着けず寝かされていた。病院までのトランスポート費、日本円にして約20円が無いと言っていた。
貧困層のすさまじい現実がそこに存在していた。
今回、私は彼女のもとを再訪した。4月に撮った写真を専門家に見せたとき既に手遅れだということは言われていた。でも、心のどこかで生きていてくれることを信じていた。本当にもう一度彼女に会えると思っていた。・・・・でも、やはり彼女は既に他界していた。近所にある孤児院の園長先生が教えてくれた。彼女は、私たちが4月に行った時に手渡した僅かなお金を使って病院に連れて行ってもらったのだそうだ。3週間入院し、少し回復したところで家に戻れたのだそうだが、4日間家に居ただけで又、容体が急変し病院に逆戻り。結局、マラリアと肺炎を併発して7月下旬に病院で息を引き取ったのだそうだ。私は、主を亡くした家の前に着くと涙が止まらなくなった。結局、助けてあげることは出来なかった。彼女の人生は、どんなんだったのだろう・・・。孤児院の園長先生が私の肩をぎゅっと抱きしめてくれた。そしてその後、私たちは近所に住む彼女を看病していた妹に会いに行った。私はそこでもっと残酷な事実を知らされることになった。
妹は、私の姿を見ると「my sister lost・・My sister lost・・。」と言って私に抱きつき、全身を震わせながら大声で泣いた。折れそうなほど細くなった腕を私の首に巻き付け、声を上げて泣く彼女に 私は言葉も無く、ただ彼女の髪をなでることしか出来なかった。共有する悲しみと共に焦燥感に襲われた。今でも彼女の泣き声と力一杯私に抱きついた時の腕の感触を忘れることが出来ない。その後、私たちは、庭に腰を下ろしお姉さんの話をした。でも、なんだか様子がおかしい。4月に会った時には、疲れてはいたものの時折、優しい笑顔をのぞかせていた。決して、太ってはいなかったが、それほど痩せ細った印象はなかった。しかし今は、4月の面影は全く無く、別人のようだった。心底疲れ果てた表情。ガリガリに痩せ細っていた。その後、話を聞いているうちに姉の死後、体調を崩し病院に行ったところ自分もエイズであると宣告されたのだそうだ。最愛の姉を亡くしたばかりでなんという残酷な告知だろう。ステージⅢの後期。
3ヶ月前までエイズの末期である姉の看病をし、その凄まじい苦しみの光景を目撃し、そして訪れた死を見取った妹。その彼女自身がエイズだと宣告されたのだ。彼女は、心身ともに疲れ果てていた。それでも姉が残した3人の子供を引き取り、面倒を見ているのだった。もし、私だったら絶対に耐えられないと思う。毎日恐怖に慄き、気が狂ってしまうかもしれない。それなのに彼女は・・・。本当に残酷だと思う。この状況をどうすることも出来ないのだろうか・・・。今は、彼女が少しでも栄養を取ってキチンと病院に行き、薬を飲んで少しでも長く生きてくれることを祈ることしか出来ない。今回、マラウイの地を再訪し、前回の視察で会ったエイズの患者さんのうち3人の方が既に亡くなっていた。亡くなった方の御冥福を祈ると共にこの悲しい思いを忘れてはならないと思った。
彼らだけではなく、この地には、本当に大勢のエイズ患者さんがいる。今やエイズは早期の治療と栄養補給をすれば進行速度をかなり遅らせられるようになった。しかし貧困層の人たちは、その医学の進歩を受けることさえ出来ない。そこにある余りにも残酷な現実を大勢の人に知ってもらい、本当の意味で世界中が手を繋ぐときが一日も早く来て欲しいと心から思った。そして自分の出来ることをもう一度考えていこうと思う。
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